夏休みももう終わりになろうとしています。家の子供は、今日のサザエさんのカツオ君のようにはならずに済んだので、ほっとしていますが、最近の夏休みの宿題読書感想文には、なんと、親が記入する欄があります。同じ本を読んで、感想文を書かなくてはなりません、実はそれが最後の宿題みたいになっていて、妻にせかされて読みました。ブックオフで、古本で買いました。夏休みの読書感想文になるような素材をを古本屋で買うなんて聞いた事ありませんが、面白そうと思って買いました。
 僕たちは、善き行いをしたいと願っているはずなのに、出来ない。みんなが、善い行いを少しずつすれば、もっと、いろんな事が良くなるのにと、1931年のドイツに住んでいた作者は考えました。社会は不安になり、外国人労働者が増え極度のインフレでめちゃめちゃになりかけていたそのころのドイツ、点子ちゃんの父や母のように、富む者はどこまでも贅沢をし、貧しいものは、とても貧しい。そんななか、点子ちゃんとアントンは、点子ちゃんの家庭教師が、悪い彼氏の為に、点子ちゃんをだまして、路上で物乞いをしています。点子ちゃんは、好奇心のためなのか、それが悪い事だと気付いていません。そんな中出会ったアントンという男の子、お母さんが病気で、生きる為に路上で物売りをして、そのせいで満足に勉強も出来ない子供、でも点子ちゃんがアントンの家に行った時、お母さんや頑張って食事を作ったりする、アントンを見て、少しずつ点子ちゃんも変わっていきます。他人が困っているのを見て、何かしてあげたいと思う気持ちに、点子ちゃんは正直に従います。乞食のまねをした、報酬を家庭教師の彼氏にあげる前にねこばばしたり、(そのこと自体は悪い事だけど)授業中に寝てしまうアントンの為に、アントンの先生に、とても賢いやり方で、本当の事を教えたりします。そんな中バカな門番の息子が、父親に告げ口します。「娘がおかしな事をしている」と、父親は信じられない気持ちで、娘を探偵のように見るのですが、門番の息子の行った通り、娘は路上で物乞いをしていました。それも家庭教師と。びっくりした父は、オペラに引き返し、変わる事のできない母親を連れて、点子ちゃんを家に連れ戻そうとします。その頃、点子ちゃんの家では、家庭教師の悪い彼氏が、家庭教師をそそのかして手に入れた、鍵を持って屋敷に忍び込もうとしていました。でも、間一髪で、その事に気付いたアントンが、屋敷に1人で居る家政婦に電話で知らせた事から未然に防ぐ事が出来ます。もどった父親は、その事と、アントンの勇気と、点子ちゃんの善い事をしようとする気持ちから、目が覚めるのです。そして、物語はハッピーエンドに終わり、アントンのお母さんが、新しい家庭教師として点子ちゃんの家に住む事になったのです。
 僕たちは、善い行いをするのに、残念ながらためらう事があります。それは、社会の為に行う事だけでなく、家族や隣人友人までにも、及びます。作者であるケストナーは、家族について、勇気について、自制心やうそについて、感謝の気持ちについて書いています。それは、末法くさく聞こえるようなことではなく、点子ちゃんやアントン、アントンの母親や、点子ちゃんの父親に当てはめて、丁寧に書いています。善い行いをしたいのに出来ない時、点子ちゃんやアントンを思い出してみたいと思います。そして、極めて消極的では、ありますが、自分の子供にもそうしてもらいたいと思います。
 ケストナーの理想は、叶う事がありませんでした。結局ドイツはナチスを選び、戦争と殺人のはびこる20世紀の代表になってしまいました。いまはどうでしょう。富める者は富み、そうでない者はいつまでも虐げられたまま、帝国主義の為の戦争は自由と大義でぼかされています。グローバリズムは最終段階にさしかかり、驚いた事に多国籍企業の悪夢が、実際に僕たちに生活にまで忍び寄っています。
 僕たちは、すぐに善い行いをする事ができるわけではありません。残念ながら、点子ちゃんのおかあさんは、少しも変わっていないように思えます。でも、これからアントンやアントンのお母さんによって変わるかもしれません。点子ちゃんも、好奇心から悪い事をしていたのに、アントンのおかげで、善い事ができるようになりました。他人を知る事は面倒ですが、そのことによって、自分が変わる事ができるのかも知れません。そのことによって、知らずに、善い事を行っていければ良いのです。「爾、隣人を知れ」とは、他の意味があると思いますが、この本を読んで、思ったことの一つでもあります。