共同幻想 分裂症 コンプレックス 僕等の問題 岸田秀 「官僚病の起源」

 岸田秀は人間は本能の壊れた動物であり、幻想や、物語によって行動しているに過ぎないと書き、精神分析的な観点から唯幻論を展開していてセドリ生活の中でもとても人気があってよく売れるタイプの評論家ですが、この本では、歴史についても唯幻論で解明しようとしています。
 
 共同体とは幻想によって成り立っている 「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた、共同の幻想である。さまざまな共同の幻想は、宗教的な習俗や倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったに違いない」
 これは、吉本隆明の「共同幻想論」ですが、吉本隆明がアプローチとして、文化人類学から性を書きそれを足がかりとして共同体つまり「共同幻想」「対幻想」を解明しようとしたのに対し、岸田秀は、もっと簡単に人間の持つコンプレックスや精神分析的に、簡潔に日本人は分裂症であり、全ては幻想であり(古事記日本書紀などの皇国史観)は実際にあった事件や史実的なから作られたものではなく、コンプレックスや外圧に基づくストレスから作られた作り物である。ときっぱり言いきっています。
 そして日本の近代は古代の反復強迫であり、外圧によって思い出したかのように日本人のアイデンティティは作り出されると書いています。
 ペリーの黒船が現われた時にもおこり、日本人のアイデンティティとして俄にわき起こったのは、武士としての誇りでは無く。古代の復権である吉田松陰いうところの大和魂アイデンティティと呼ぶ事だったのです。天皇制とは元々国家の起源であったり、民衆の抑圧装置としての機能を持っていた訳ではなく、日本全国つまり、西日本から九州に向かって、神武天皇が支配していったという事も全くの嘘で、5世紀6世紀の頃日本で初めて外圧があって、その時にアイデンティティがどうしても必要になったので、あったかのような物語としての古事記を編纂するしか無かったのではないか、それが日本をや天皇制を形成していったのでは無いかと書いています。
 つまり、国家であっても、人間と同じ様に、幻想や、物語によって行動しているに過ぎないというのです。つまり、便利な装置としての皇国史観であり、天皇制とは最初から象徴にすぎなかったのです。いわゆる今でもよく行われる、誰かをなにかの長に仕立て上げる時、極めていい加減な決め方で長を決めますが、同じ様に豪族同士が集まって誰かが「だったら、大和朝廷さんやればいいんじゃない」と決めたのではないかと書いています。
 とても、面白かったのですが、金太郎飴的思考をする人には、けしからん本ということになるのでしょうが、人間を精神分析するように、特に歴史に詳しくなくても国家でも精神分析出来るというスタンスは、あながち間違っていないような気がします。
 
 ちょっと前に阿部とかいう人が、有名な文学賞を取りましたが、多くの新聞とかに、「彼は、世界の状況を良く知っていて、的確に話す事が出来る。」とか、「世界の事を知っている」とか書かれていてまた、「小説家というのは、世界を知っている知識人だ」という幻想に未だにまみれているのかなとがっかりしたのですが、世界なんて状況を知る事や、新聞を良く読んでいる事や、いろんな最新の事を知っているという事に全然繋がらなくて、例えば、赤ちゃんをあやしている時や、写真を撮ったり、現像している時でも知ろうと思えば知る事が出来るものだし、それによってミクロ的に小さくとも知った世界とマクロな実際の世界はそれほど違っているものではないと思います。阿部なにがしが言葉によって語る状況と実際の世界との乖離の方が遥かに激しいと思うのは僕だけでしょうか?
 
 この本、吉本隆明の、共同幻想論を読んでから読むと良いかも。解説的ですらある。何もする事が無くとても暇なら、マルエン全集読んでからでも良いよ。(笑)
 
 しかし、岸田秀の、ペリー来航から、日本はアメリカの植民地時代であり不平等撤廃条約から、やっと近代日本になったのであって。日露戦争で助けてやったから、満鉄の権利を半分よこせと言ったら嫌だといったので、ちょいと意地悪してやったら、戦争を仕掛けてきたので、ちょっとやっつけてやったという、親分子分的世界だというのはちょっと引き攣った笑いを呼び起こしたな。
 「杯を交わしたのは幕府とかやらだったのに、急にのし上がってきた天ちゃんとかいう奴が居すわって、なんやこいつと思うてたら、こっちのいう事もきかんと、勝手なことばっかりしやがって、そやからちょっとしまを荒らさせてもろうたんや、そしたら、あいつけんかしてきよったねん。そりゃいてまうがな。」という、親分アメリカさんの意見でした。
 けど、それで、1100万の命が奪われるのだから、やはり戦争というのは・・・

官僚病の起源