ジョン・コルトレーンの「アセンション」について語るのはそんなに悪い事なのか?

crayola2005-10-09

アセンション

 ブラックミュージックや、ソウルミュージックを10代の頃から聴いていたのですが、よく言われる、リズムやグルーブや唄の巧さというものは、それほどその頃は問題にしていませんでした、多分オーティス・レディングやアリーサ・フランクリンなどのサザンソウルを沢山聴いていたからだと思いますが、ブラックミュージック(ソウルミュージック)とは、スピリチュアルなものなのだから感動するんだと、いうことをいつも考えていました。リズムやグルーブというものを意識する様になったのは20代になってからでした。そんな、ブラックミュージックにハマり始めた頃、ブラックミュージックとしてジャズを聴く事は、音楽の興味が広がっていっていた僕としては当然な事だったのですが、その頃溢れていたスノッブなジャズはリズムを感じる事が多少出来ても、全然スピリチュアルでなくて、とても、物足りない気がして、マービン・ゲイや、カーティス・メイフィールドを聴くことで、スピリチュアルな音楽を感じていました。その頃は僕の様な中途半端な人間なら一応通過儀礼的に通らなければならない、挫折や、差別や、つらい事が沢山あって、もしかすればその頃に完全にひねくれることも出来たのでしょうが、そうならないで済んだのは、ジョン・コルトレーンの後期の頃の音に触れる事が出来たことがあると思います。
 前に、このブログで、ジョン・コルトレーンを聴くと田舎のアスファルトの山道を思い出すと書いて、それがジャズスノッブどもにバカにされた事を書いたのですが、その思いは今も変わりません。
 最悪なのはジャズ・スノッブで、ジョン・コルトレーンの後期のアルバムの事を20代の若者が語っているという事実だけで、遅れてきた左翼学生を見るみたいな目をして、「青いね」とか、「フリージャズなんてお洒落じゃないじゃん」とさんざんバカにされて、そのくせ、そいつらの知っているロックやブラックミュージックの貧困さに寒い思いまでしたのですが、そいつらの口癖は、「ジョン・コルトレーンアセンションを「これはすごいんだとか、ガーという奴ってうざってえ」としきりに言っていました。だからてっきり完全なぐちゃぐちゃなフリーフォームなジャズで、調和とかジャズ的な雰囲気が完全に排除された重い音楽なんだと思い込んでいました。なので、それにCDもレコードもちょっとだけ、値段が高めだったので、つい最近まで、買っていませんでした。
 でも、このアルバムちゃんと聴いてみると、素晴らしい、スピリチュアルミュージックであることに気付きます。別に難しい音楽でも、拒否反応を起こす音楽でもなく、ブラックミュージックとして聴いちゃえば、特に難しいわけでも、聴きづらいわけでもありません。それに、みんなが勝手な演奏をしている訳でもなく、一つの目的に向かって演奏をしています。それは、自分たちのアイデンティティとしての、アフロアメリカンとしての独立と自覚を、表現しようとしていると思うのです。そこにある激烈さはアイデンティティを獲得するための怒りと感情の露出があるにしても、このブログのジミヘンの時にshiroppさんが書いていたように、自分たちが求めるべき地平、超えようとする地平が、示されていてそれに単純に感動するのです。コルトレーンをめぐる旅をするには、あまりにジャズ言語が貧困で、素養もあるとは思えませんが、少しだけ自分なりに書いてみたいと思います。
 ところで、ジャズスノッブさん達は、最近になってやっと認められた、日本のフリージャズの人達のコンサートに、メディアで紹介される機会が多いので訪れたりしてるのでしょうか、「渋さ知らズ、カッコイイ」とか、臆面もなく言ったりしていたりして、渋さ知らズは聴けるのに、コルトレーンアセンションは聴けないという、トンでもない欺瞞。