愛と世界へのまなざし ジョン・レノン

 師走になると、仕事や忘年会やらなんかとても忙しくなって、ブログを書く事が出来ませんでした。反省。

今日は、ジョン・レノンの命日です。

きっと全世界のブログで、沢山、ジョンの事が語られていると思います。
 ジョンが撃たれたのは、僕が小学生5年の時でした。残念ながらジョンの事は知りませんでしたが、ファンであるマーク・チャップマンに撃たれたというのがとても不思議で「どうして」と考えた事は憶えています。

 その後になってから、ビートルズのファンになったのですが、もし、その時もう少し大人で、ジョンのファンだったら、とてもショックを受けたのではないかと思います。

 今日、新聞を読んでいたら、鶴見俊輔が、ベ平連小田実について書いているコラムがあって、興味深く読んだのですが、小田実の「アジアの欠如」と「空襲から逃げ惑った民衆の視点」というのを忘れていない事をあげていました。そして、それが、為政者やポリティカルな、イメージで見る世界と決定的な差があるように書いていました。つまり、地面にいる自分から見上げる世界と、地図で見る世界の違いは決定的ですらあるのに、それを忘れて世界の事を人間は考えてしまうのでは無いでしょうか。

 ジョンには、きっと、有名なビートルズの一員であるという意識から見る世界と、地上に生きている人間としてのイメージを、混乱させずに、自分のなかで統合しようとして、自分の表現を獲得しようとしたのでは無いでしょうか。ジョンのラディカルな、愛や平和は時としてネイキッドなジョンを見せているだけと思い、ヘビーだと思ってしまいがちですが、自分が見る世界の出来事や、日常を、一度、歌詞で異化することによって、執着から逃れ、言葉を意味から解放しながら、また、ジョンが思う意味へ帰結させて行く。
ジョンの唄う、ラブはラブであってラブではなく、ピースはピースであってピースではない、ジョンはジョンであってジョンではなく、ヨーコもヨーコであってヨーコではない。
 世界には元々意味なんか無く、そもそも意味にも意味なんか無い。

想像してごらん天国なんてないんだと、僕等の足下には地獄もなく、頭上にはただ空が広がっている。        ジョンレノン・イマジン

毎年、ジョンの命日には、ビートルズを聴いていたのだけど、今日は、最近発売されたジョンのベストCDを聴いています。ジョンの冥福を祈るだけでは、ダメなような気がしたので、今日は書いてみました。

決定盤 ジョン・レノン~ワーキング・クラス・ヒーロー~