エルサレム スティーブ・アール
ニール・ヤングの新作の話題を、皆さんのブログで読んでいて、「買わなきゃ」と思っています。怒れるロックンローラーの代表そして、発言者、表現者としてのニールには、いつもながら感心します。
皆さんのコメントを見て思うのは、ニール・ヤングがいつも怒れるオヤジである事をやめないし、その時の状況にコミットしていけるのは、常に「どんなに困難で難しい世界の問題でも、理想やパフォーマンスで、語るのではなく、自分の内面的な、極めて個人的な問題として、歌うし、そんな歌い方しか出来ない。」というのが、ひしひしと感じます。
残念ですが、日本のこのようなパフォーマーとしてはとっても優秀なR・Sには、政治的なすごく真っ当に思える発言を受けても、なぜか、こちらに響いてこないのは、パフォーマーとしての、アーティストの言葉でしか無いような気がするからです。
確かに、知識やまともな事を言っているのだけど、決して心には響いてこないと言う事がみなさんありませんか?
この僕の発言もバッシング受けそうですが、実は第一線以外の社会活動家に、この手の人多いと思います。そして、多くの評論家や思想家にも。
この、ニールの新譜は、決して時事的でも、状況的でもなく、何処か「遅いじゃん」あるいは、「だから何だまたか」という印象を受けるかもしれません。ですが、「リビング ウィズ ウォー」と自分の事の様にして歌う事が出来る彼。単なるパフォーマーなら、若手が書くのなんか待たずにすぐに適当に曲書いて、さも反戦的なメッセージ性をもったふりをして書いたでしょう。そんな事ができない彼そして、まだまだ歌う事があると言える彼。そんなニールと一緒に行きている事に僕たちは感謝しなくてはならないのかもしれません。ブルース・スプリングスティーンもそんなアーティストの一人だと思います。
買っていないCDのコメントをするのは、気がひけるので、今日は、このCDは、9.11の後に発売されて、John Walker's Blues を書いて、マスコミからバッシングを受けました。
パフォーマーだったら、こんなに言ってはいけないような事を唄にしなかったでしょう。
この生粋のアウトローである、スティーブ・アールもそんなアーティストの一人だと思うのです。
最後に、引用です。
ニール・ヤングもきっとこんな事を言いたいのでは無いでしょうか?
どんな問題でも、自分の事のように話す、あるいは書く事の出来る青臭い意味での責任というのを、背負って生きている。希有な思想家が若い時に書いた詩です。
結構批判が多い人ですが、僕には「難しいことなんか無いんだ、なんでも自分の事として考えた方が良いんだよ。誰にでもその力はある」と教えてくれる様な気がして時に読む事があります。
言ってる事は知的で良い様に思えるけど結局はパフォーマーでしかない、柄谷行人の様な人が多くなりませんように。下手でもいいから自分で考える様に。
ニールの新作については、買ってからまた書きます。
試験で頭使わなくても済むので、自分なりに戦争について書いてみます。
ぼくはでていく
冬の圧力の真むこうへ
ひとりっきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとりっきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
ぼくはでていく
全ての時刻がむこう側に加担しても
ぼくたちがしはらったものを
ずっと以前のぶんまでとりあえすために
すでにいらなくなったものにそれを思いしらせるために
ちいさなやさしい群れよ
みんなは思い出のひとつひとつだ
ぼくはでていく
嫌悪のひとつひとつに出遇うために
ぼくはでていく
無数の敵のどまん中へ
ぼくは疲れている
がぼくの瞋は無尽蔵だ
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあうことをきらった反抗がたおれる
ちいさな群れへの挨拶 吉本隆明